4 猫缶をめぐって (T)

               ―わたしを束ねないで―



          1

 私の家のトラ猫はその辺をうろついていたノラ時代、3日越しにサトイモの煮っころがしであれ餃子の皮であれ、人間の残飯ならなんでも食う、じつにたくましい雄であった。
 飼い猫に昇格してからは過保護が当たり前となり、猫用缶詰のみを生きがいとする無気力な中年グルメ猫になりさがってしまった。120円の猫缶を日に3つ半食べるから、月の食費が約5400円である。
 これが猫缶製造労働者の平均月収の3分の1以上にあたるとは、タイに来てみてはじめて知ったことだが、猫ならまだしも、われわれまで、食べものの作り手の苦労にはとかく想像が及ばないものだ。日本の猫缶輸入量(推定、年間4万数千トン)のほぼすべてをまかなうバンコク周辺の缶詰工場を見学したら、猫ともども足をタイ方面に向けては寝られない気がした。
 大手のA工場に取材を申し込んだら、英文の申請書まで出したのにあっさり断わられた。
 たいへんな警戒なのである。
 貴重な水産資源を捕るだけ捕り、安い労働力で加工させ、日本のペットはただそれを食うだけという、人と動物がひっくり返った生産、消費構造。そのことへの反省論がささやかながら日本の一部で出はじめていることに、タイのペットフード関連企業全体がいま、神経質になっている。「社会問題化しないで」と、あちこちで言われた。
 日本からの注文が減ったら、ペットフード関連工場10数社、労働者約2万人の明日に影響するからだ。「猫缶反省論」など工場側にとって迷惑なだけなのである。
 ともあれ、すべて匿名を条件に、バンコク東郊外のB缶詰工場の見学になんとかこぎつけた。
 内臓を抜いたカツオを巨大な鉄の箱で蒸すところから見た。
 蒸しカツオを冷やしてからがたいへんだ。ゴム長に、白い帽子、白い制服のタイ人女性たちの、立ちづめの手作業がはじまる。
 魚粉肥料に似た臭気と熱気が充満するなか、ナイフで頭を落とし、皮を削る。
 胴体を4つに割って、骨を抜く。小骨除去にはピンセットも使う。根気がいる。
 さらに血合いと白身を指先で分類する。ここが難しい。慣れるのに最低でも2ヶ月はかかる。ベテラン労働者が目を血のようにしている。血合いが猫缶用、白身が人間用のフレーク。混入すると品質にむらができるからだ。
 血合いと白身の分類が終わると、ベルトコンベヤーが二つに分かれ、一つは猫缶用に、他方は人間用に流れていく。猫缶用には途中でビタミンE、ミネラルなどが注入される。
 日本の猫の高級志向に応じて、人間用の白身、エビ、シラスなどが加えられることもある。
 自動肉詰め機械のない、中堅クラスのこの工場では、若い女性が猫用の缶に手でいちいち魚肉を入れては計量していた。女性たちの目はまるで電子部品でもこしらえているように真剣だった。
 生身の労働者たちが手を加え、苦心する程度は猫缶でも人間用でも同じなのだ。
 8時間労働(1時間休憩)で日給115バーツ(約575円)。月に26日間働いても1万5千円程度である。それでも、中小の縫製工場などよりいい収入だ。
 狭い寮の一部屋に3、4人で寝起きという例もあるが、これもタイでは恵まれているほうなのだ。日本の都市部のギャルたちならたぶん20倍の給料でもこの労働をいやがるだろうと私は思う。
 できあがった猫缶の包装を見たら、わが家のデブ猫がこよなく愛する銘柄なのだった。しかも、日本向け猫用缶詰の包装ときたら、この工場のギリシャ向け人間用魚肉缶詰のそれよりよほど立派で金をかけている。
 この汗の結晶が、あの堕落猫の口に入るのか。想像すると腹が立つ。
 そんなにうまいものかと猫缶完成品を食ってみた。塩気がなくて、魚臭いだけの、気抜けするような味だった。

 昼休みに工場近くで、ティンという丸顔、色黒の女の子と話した。まだ16歳だ。猫缶製造最終段階の肉詰め係りをしている。タイ東北部ブリナム県の稲作農家の出身で、ひどく無口な人だ。
 缶詰工場は、農業よりずっと楽だという。工場労働をやめて一度実家に戻って農業を手伝ったが、結局工場に戻ってきた。
 実家で猫を飼っているか私は聞いてみた。
「猫も、犬も飼ってなんかいない」
 つまらないことを聞かないでよという表情だった。
 それでも、食べものの話になるとニコニコする。朝食、昼食に10バーツ(約50円)ずつ、夕食には20バーツかける。物価水準がちがうけれど、日本の猫缶の値段が私の頭にちらついた。(中略)
「日本の猫のための缶詰を作っていること、どう思う?」
 ひどい質問だった。あれはなかった。やめておけばよかった。
 チィンは沈黙したのだ。目が怒っていた。やがて言葉を吐き捨てた。
「関係ない。ただ働いているだけよ」
 そう、彼女には自分がこしらえた缶詰をいったいだれが食うのか、想像しない権利がある。
 ソムタムを食べて、父母のいる故郷を思うほうがいいに決まっている。
 質問されなければならないのは、私たちのほうなのだ。
あなたの家の猫が食べているその缶詰が、どうやってできたものか想像してみたことがありますか?」と。(辺見庸「食と想像力」

  課題 この文章を読んで、君はどう感じましたか。また、タイのティンという女の子から
    傍線部のような質問を受けたとしたら、どう答えますか。400字以上之文章で自由
    に述べてください。

          2

 中3の授業では、教科書の一編である日高敏隆「猫の動物学的宇宙誌」に入った。高名な動物学者が書いた、猫の不思議な生態をめぐる軽い内容の文章である。「表現の味わい」という単元なので仕方ないが、生徒たちにとってはもうひとつ物足りない教材だったようだ。そこで、早々に終わらせてしまって、猫に関連した全く異なった角度からの文章「食と想像力」を彼らに読ませることにした。同時に高校生たちにもこの教材を与えた。
 芥川賞作家の辺見庸の『もの食う人びと』が1994年に出版されて話題を呼んだ。共同通信社の記者でもある著者が<食>をテーマに世界中の国々をレポートして歩いた文章をまとめた本だが、報告された幾多の衝撃的な事実は、いきなり頬を張られるほどの迫力があった。なかでも、「食と想像力」の一章から受けた驚きの記憶は今なお薄れることがない。
 その内容を、若い君たちはどう受けとめてくれるだろうか。文中のティンの年齢に近い君たちだから、彼女の苦しみを充分理解できるのではなかろうか。そう期待して、この課題に答えてもらったのだった。
 ところが、君たちの書いてくれた200枚もの文章を読み進めるうちに次第に憂鬱な思いが増してくる。こんな課題を出すのがそもそも間違っていたのではなかろうか。まして、大人のわたしさえ手に余るような難問を課すなんて、ムチャクチャだったのではないか。そんなやり切れない気持ちが高じてくるのだ。
   
 君たちの書いてくれた文章の論旨はおよそ次のように集約される。
 以前、社会の授業で猫缶の学習をしていたのでわかっていたつもりでいた(わが校では、猫缶についてはすでに社会の授業で学習したことがあったことをその時点で初めて知った)が、今回「食と想像力」を読んで改めて実情がつかめた。猫缶がタイの同年輩の女の子の手仕事で作られること、しかも彼女の1ヶ月の賃金が日本の猫3匹分の1ヶ月の食費にしかならないことに驚きを感じている。しかし、同情のあまりタイで製造された猫缶を買うのをやめてしまったら、彼女の失業を招くだけだ。また、同情したとしても、豊かな日本の社会構造を変えることもできるわけはない。みな先進国と開発途上国とのちがいなのだから、このような矛盾が生じてもこの世では仕方のないことだ。……

          3

 中3の国語の教科書に掲載されている新川和江の詩「わたしを束ねないで」を思い出す。6つの連から成り立っているこの詩の第一連は次の通りである。

  わたしを束ねないで
  あらせいとうの花のように
  白い葱のように
  束ねないでください わたしは稲穂
  秋 大地が胸を焦がす
  見渡すかぎりの金色の稲穂


 初めて読んだとき「わたしを束ねないで」という詩句に思わずドキッとした。
 畑から引き抜かれたばかりの葱を見たことがあるだろうか。真っ黒い泥が付着してそのまま齧ってみたいほどの純白の輝きを放つ葱が、洗剤で泥が洗い流され、葉が切りそろえられた末に5、6本ずつ束ねられて市場に出荷される。これみな消費者の購買力をそそらんとしてである。
 わたしたちもその葱と変わりないことに気づかないであろうか。幼いころからこの社会で無事に生きていこうとするうちにいつの間にか同じような顔つきになり、やがて同じリクルート・スーツに身を固めて社会に巣立っていく。有用な人間になろうとするうちに同じような発想でものを考えていることにはっと気つくことがある。
「わたしを束ねないで」の最終連で作者はこう訴える

  わたしを区切らないで
  、(コンマ)や・(ピリオド)いくつかの段落
  そしておしまいに「さよなら」があったりする手紙のようには
  こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
  川と同じように
  はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

 第6連で新川さんは手紙文を例にとる。慣習的な手紙は、拝啓から始まって、時候の挨拶、先方へのご機嫌うかがいと続き、「さて」と転じて用件に入る。用件は簡潔にしたため、余計な内容はさしはさまないほうがよい。そして最後は相手の将来を祈念して「敬具」で結ぶ。型通りの文面がやりとりされ、本音を封じこめたまま社会生活を円滑に営もうとする。そのようにしていつしか現状に流され、自立性や個別性を失っていき、やがては「区切ら」れていく。そんな世の中に反発して、自分は、自由で、無限の可能性を秘めていることを訴える。

「食と想像力」を読んで、タイの少女が置かれている状況にショックを受けながらも、これも仕方がないやと逃げをうつ。それでいいのだろうか。
 飽食の時代に生きて途方に暮れているのは、君たちばかりではなく、作者の辺見さんだって同じだ。この文章の行間からも、圧倒的な現実を前にした彼のうめき声が聞こえてくるにちがいない。しかし、それは、うちひしがれて絶望したあまりに放つ暗いうめき声ともちがうことに気づかないか。
 大きく立ちふさがる現実の壁を前にして、彼は、ふみとどまって、「束練られたり区切られたり」しない自由な発想を武器に、立ち向かおうとする。

☆辺見庸『もの食う人びと』は角川文庫に収録されている。また、新川和江の詩「わたしを束ねないで」は、『現代詩文庫64 新川和江詩集』(思潮社)か『私を束ねないで』(童話屋)で読むとよい。   

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